11-212x300

月刊RCFanに掲載された記事の中から、特に人気の高かったものをアーカイブとして再掲載する本企画。その第一弾は、RCFan通巻200号特別企画としておこなった、F3C世界チャンピオン経験者同士の特別対談「泉水和幸×土橋幸広〜今こそRCヘリを語ろう〜」をお送りします。

2017年1月号に掲載されたお二人の対談は、RCヘリフライヤーを中心に特に高い人気を集め、非常に好評を得ました。日本が世界に誇るワールドチャンピオン2人の対談は、RCFanでしかできない貴重なもの。今回、この対談を全3回に分けてお送りします。今回は中編となります。

■編集協力■
双葉電子工業
ワイズファクトリー

※本企画は月刊RCFan2017年1月号に掲載されたものを編集し再掲載したものです。

前編はこちら

14-00

お互いのフライトテクニックについて

編集部:そんな世界でも多く戦ってきたお二人ですが、海外のフライヤーで印象に残っている人はいますか?
土橋氏:やはりカーチスですね。
泉水氏:自分もそうですね。最初に見た時はあまり凄いとは思わなかったのですが、戦っていくうちに彼の凄さに気づきましたね。当時の彼のオートローテーションは他の人がやれと言われても絶対できないと思います。
土橋氏:大会の時のカーチスの飛びは凄いとは思わなかったのですが、練習を見ているとひとりだけ規格外だな、と思いましたね。
泉水氏:3Dフライトを始めたのも彼ですし、「自分ではできない」と思ってしまうような演技を繰り出してくるんですよね。あれを見せられると他の選手は意気消沈してしまいますね。
土橋氏:他はあまりいなかったかな…。それよりすぐ近くにライバルがいたので。あの頃はカズしか見てなかったですね。
泉水氏:自分もそうですね。JRとフタバに分かれてから10年間くらいは、どばっちゃんが本当に脅威でしたからね。どばっちゃんが組んだヘリって今だから言いますけど決してよくできたヘリではないんですよね(笑)。それでもどばっちゃんが飛ばすとしっかりと飛んでしまう。フライヤーの技量と機体の性能の割合だと、8対2でフライヤーの技量で飛ばしていたようなものだと思います。自分から見ていても信じられないような操縦技術でしたね。自分じゃあの機体をあんなに正確には絶対に飛ばせないです。宇都宮で開催された日本選手権で彼の助手として自分が付いたのですが、助手の位置から見ると機体が非常に細かく動いているのが分かるのですが、審査員席から見るとピタっと静止しているように見えるのです。それだけ細かい舵を打ち続けることができる。あれは凄いなと思いましたね。どばっちゃんが世界選手権でチャンピオンになった後の3年間くらいは本当に無敵で、まったく敵わなかったですね。

編集部:逆に土橋さんから見て泉水さんのフライトで凄いところはどのあたりですか?
土橋氏:カズの飛びは他の人には真似できないようなものでしたね。「ここでこうやって止めてくるのか!」と驚愕するような飛行を何度も見たことがあります。あの頃は生意気に聞こえるようですが他の人はまったく見ていなくて、相手はカズだけでしたね。あの頃はフタバとJRという看板があって、今よりも意識も高かったもんね。逆にそれだけRCヘリが熱い時代だったんだろうね。
泉水氏:あの頃は凄かったよね。若い自分たちから見ると個性の強い先輩ばっかりだったもんね(笑)。
土橋氏:日本選手権の時も、自分たちは2日くらい前から前乗りして会場で練習したりしていたのですが、カズは大会当日にいきなり来て、サッと完璧な演技をして優勝してすぐに帰ってしまう。あれはなぜか強く印象に残ってますね。あの頃は両者のスタイルがまったく違っていて、それも面白かったですね。
泉水氏:手の内を見せたくなかったですからね。あの頃は優勝だけしてサッサと帰ろう、と思ってた時代でもありましたね。今考えてみると若かったんでしょうね。その代わり、地元では最後まで綿密な調整と練習を繰り返していましたよ(笑)。これは、教えてもらう先輩や環境によって考え方もそれぞれだったということでしょう。自分は日本選手権は戦いの場だと思って行っていましたが、どばっちゃんはそこで多くの仲間を増やしていきながら楽しんでいくというスタイル。どちらが良い悪いではなく、当時はそれぞれ自分に合ったスタイルでやっていたということです。
土橋氏:あの頃は今より格段にメーカー色が強かった時代だったですからね。
泉水氏:選手権の会場で車を停める位置までメーカーで固まってたもんね。
土橋氏:本人同士は敵対意識みたいのはまったくなかったんだけどね(笑)
泉水氏:凄い体育会系の世界だったよね(笑)

14-07

印象に残っているRCヘリについて

編集部:長くRCヘリを飛ばされているお二人ですが、これまでで一番印象に残っている機体は何ですか?
土橋氏:自分はヒロボーの「ノバ」ですね。日本選手権で初めて優勝した時の機体なのですが、実は初めて自分ですべて作った機体なのです。機体を組んで、ボディの塗装まで自分でやりました。これがすごく出来が悪いんです(笑)。ピンクと緑と…3色くらい使ったかな。自分で初めて塗装したものだから塗装の段差もすごくあってガッタガタな仕上がりでした(笑)。スキッドも自分でアルミ板を切って作ったのですが、普通に着陸しただけで塗装が剥がれてしまうという(爆笑)。
泉水氏:あれは本当にヒドい出来で、とてもチャンピオン機とは言えない代物でした(笑)。それで見るに見かねた黒川さん(※編集部注:黒川善英氏。ブラックプロダクツ代表でF3C用ボディ「シャーク」の開発を手がける)がボディを作られて「シャーク」になっていったんですよね。
土橋氏:塗り方もわからないし、センスもないから(笑)。でもあれ一生懸命デザイン考えて自宅の部屋で塗ったんだけどね。
泉水氏:まあ、遠くで飛行してる分には大丈夫だったけど、近くで見たらヒドかった(笑)
土橋氏:まだナルケホビー(※編集部注:千葉県茂原市にあるRCショップ)に飾ってあるはずです(笑)。

編集部:泉水さんはどの機体が印象に残っていますか?
泉水氏:やはり自分も初めて日本選手権を優勝した時の機体ですね。当時はヒロボーの「SSW」という、今では幻の機体みたいなやつがあったのですが、私の父(※泉水英二氏。ファンテック代表)がオリジナルで作ったベルト駆動の機体でした。当時はヒロボーから「イーグル」が出る直前だったと記憶していますが、ボディはヒロボーのジェットレンジャーのボディを付けて、機体は父のオリジナルのものを使って飛ばしていました。当時はまだ上からベルトでエンジンを始動していた時代ですね。
土橋氏:あの機体は画期的だったよね。飛びもすごく静かで。確かマフラーも特注品だったよね。
泉水氏:マフラーもミニチャンバーのような特注品で、非常に静かな音でした。この機体で初めて日本選手権で優勝できたので、やはり一番記憶に残っていますね。でも考えてみたらどばっちゃん凄いね。あの頃から自分で機体を組んでいたんだもんね。
土橋氏:結構適当だったけどね(笑)
泉水氏:自分はその頃はまだ父が組んだ機体を飛ばしていただけでした。自分で機体も組むようになったのが、先ほど話に出た、どばっちゃんが優勝した世界選手権の後ですね。勝つためには自分で機体を組めるようにならないとダメだと感じて、そこからはすべて自分でやるようになりました。

14-06

編集部:しかし、お話をうかがっていると、同じ世代のライバルがたまたま同じ県にいて、同じ競技で世界を相手に切磋琢磨しあうというのは凄いことですよね。
泉水氏:凄いめぐり合わせだと思います。二人が中学生の頃から飛ばしていた飛行場には中島さんもいましたし、飛行機では成家さん(※編集部注:成家儀一氏。F3A世界選手権を連覇した名フライヤー)もいましたので、日本のトップクラスの人たちのと距離が近かったのはラッキーでしたね。普段からチャンピオンのフライトを見ることができますし、身近に接することができたのは大きかったと思います。さらに、すぐ近くに同じ世代の最大のライバルがいましたから、やはりお互いが競い合ってきたからこそ、ここまでやってこれたところはあったと思いますね。

編集部:お二人はいま振り返ってみるとRCヘリを始めて良かったですか?
土橋氏:自分は始めて良かったですね。
泉水氏:自分もそうですね。

編集部:いろいろ大変なこともこれまであったかと思いますが…。
土橋氏:自分はあまり大変だと思ったことはないですね(笑)。
泉水氏:RCヘリという決して大きな世界ではないかもしれないですが、そのひとつのことで世界チャンピオンになれたというのは自信になっていますし、その過程を経験できたというのは非常に大きかったですね。

後編に続く。


【RCFan2017年1月号より】通巻200号記念〜泉水和幸×土橋幸広 特別対談【中編】https://www.rcfan-plus.com/wp-content/uploads/2019/02/14-00-683x1024.jpghttps://www.rcfan-plus.com/wp-content/uploads/2019/02/14-00-150x150.jpgrcfan-plus月刊RCFanアーカイブ>>月刊RCFanに掲載された記事の中から、特に人気の高かったものをアーカイブとして再掲載する本企画。その第一弾は、RCFan通巻200号特別企画としておこなった、F3C世界チャンピオン経験者同士の特別対談「泉水和幸×土橋幸広〜今こそRCヘリを語ろう〜」をお送りします。 2017年1月号に掲載されたお二人の対談は、RCヘリフライヤーを中心に特に高い人気を集め、非常に好評を得ました。日本が世界に誇るワールドチャンピオン2人の対談は、RCFanでしかできない貴重なもの。今回、この対談を全3回に分けてお送りします。今回は中編となります。 ■編集協力■ 双葉電子工業 ワイズファクトリー ※本企画は月刊RCFan2017年1月号に掲載されたものを編集し再掲載したものです。 前編はこちら お互いのフライトテクニックについて 編集部:そんな世界でも多く戦ってきたお二人ですが、海外のフライヤーで印象に残っている人はいますか? 土橋氏:やはりカーチスですね。 泉水氏:自分もそうですね。最初に見た時はあまり凄いとは思わなかったのですが、戦っていくうちに彼の凄さに気づきましたね。当時の彼のオートローテーションは他の人がやれと言われても絶対できないと思います。 土橋氏:大会の時のカーチスの飛びは凄いとは思わなかったのですが、練習を見ているとひとりだけ規格外だな、と思いましたね。 泉水氏:3Dフライトを始めたのも彼ですし、「自分ではできない」と思ってしまうような演技を繰り出してくるんですよね。あれを見せられると他の選手は意気消沈してしまいますね。 土橋氏:他はあまりいなかったかな…。それよりすぐ近くにライバルがいたので。あの頃はカズしか見てなかったですね。 泉水氏:自分もそうですね。JRとフタバに分かれてから10年間くらいは、どばっちゃんが本当に脅威でしたからね。どばっちゃんが組んだヘリって今だから言いますけど決してよくできたヘリではないんですよね(笑)。それでもどばっちゃんが飛ばすとしっかりと飛んでしまう。フライヤーの技量と機体の性能の割合だと、8対2でフライヤーの技量で飛ばしていたようなものだと思います。自分から見ていても信じられないような操縦技術でしたね。自分じゃあの機体をあんなに正確には絶対に飛ばせないです。宇都宮で開催された日本選手権で彼の助手として自分が付いたのですが、助手の位置から見ると機体が非常に細かく動いているのが分かるのですが、審査員席から見るとピタっと静止しているように見えるのです。それだけ細かい舵を打ち続けることができる。あれは凄いなと思いましたね。どばっちゃんが世界選手権でチャンピオンになった後の3年間くらいは本当に無敵で、まったく敵わなかったですね。 編集部:逆に土橋さんから見て泉水さんのフライトで凄いところはどのあたりですか? 土橋氏:カズの飛びは他の人には真似できないようなものでしたね。「ここでこうやって止めてくるのか!」と驚愕するような飛行を何度も見たことがあります。あの頃は生意気に聞こえるようですが他の人はまったく見ていなくて、相手はカズだけでしたね。あの頃はフタバとJRという看板があって、今よりも意識も高かったもんね。逆にそれだけRCヘリが熱い時代だったんだろうね。 泉水氏:あの頃は凄かったよね。若い自分たちから見ると個性の強い先輩ばっかりだったもんね(笑)。 土橋氏:日本選手権の時も、自分たちは2日くらい前から前乗りして会場で練習したりしていたのですが、カズは大会当日にいきなり来て、サッと完璧な演技をして優勝してすぐに帰ってしまう。あれはなぜか強く印象に残ってますね。あの頃は両者のスタイルがまったく違っていて、それも面白かったですね。 泉水氏:手の内を見せたくなかったですからね。あの頃は優勝だけしてサッサと帰ろう、と思ってた時代でもありましたね。今考えてみると若かったんでしょうね。その代わり、地元では最後まで綿密な調整と練習を繰り返していましたよ(笑)。これは、教えてもらう先輩や環境によって考え方もそれぞれだったということでしょう。自分は日本選手権は戦いの場だと思って行っていましたが、どばっちゃんはそこで多くの仲間を増やしていきながら楽しんでいくというスタイル。どちらが良い悪いではなく、当時はそれぞれ自分に合ったスタイルでやっていたということです。 土橋氏:あの頃は今より格段にメーカー色が強かった時代だったですからね。 泉水氏:選手権の会場で車を停める位置までメーカーで固まってたもんね。 土橋氏:本人同士は敵対意識みたいのはまったくなかったんだけどね(笑) 泉水氏:凄い体育会系の世界だったよね(笑) 印象に残っているRCヘリについて 編集部:長くRCヘリを飛ばされているお二人ですが、これまでで一番印象に残っている機体は何ですか? 土橋氏:自分はヒロボーの「ノバ」ですね。日本選手権で初めて優勝した時の機体なのですが、実は初めて自分ですべて作った機体なのです。機体を組んで、ボディの塗装まで自分でやりました。これがすごく出来が悪いんです(笑)。ピンクと緑と…3色くらい使ったかな。自分で初めて塗装したものだから塗装の段差もすごくあってガッタガタな仕上がりでした(笑)。スキッドも自分でアルミ板を切って作ったのですが、普通に着陸しただけで塗装が剥がれてしまうという(爆笑)。 泉水氏:あれは本当にヒドい出来で、とてもチャンピオン機とは言えない代物でした(笑)。それで見るに見かねた黒川さん(※編集部注:黒川善英氏。ブラックプロダクツ代表でF3C用ボディ「シャーク」の開発を手がける)がボディを作られて「シャーク」になっていったんですよね。 土橋氏:塗り方もわからないし、センスもないから(笑)。でもあれ一生懸命デザイン考えて自宅の部屋で塗ったんだけどね。 泉水氏:まあ、遠くで飛行してる分には大丈夫だったけど、近くで見たらヒドかった(笑) 土橋氏:まだナルケホビー(※編集部注:千葉県茂原市にあるRCショップ)に飾ってあるはずです(笑)。 編集部:泉水さんはどの機体が印象に残っていますか? 泉水氏:やはり自分も初めて日本選手権を優勝した時の機体ですね。当時はヒロボーの「SSW」という、今では幻の機体みたいなやつがあったのですが、私の父(※泉水英二氏。ファンテック代表)がオリジナルで作ったベルト駆動の機体でした。当時はヒロボーから「イーグル」が出る直前だったと記憶していますが、ボディはヒロボーのジェットレンジャーのボディを付けて、機体は父のオリジナルのものを使って飛ばしていました。当時はまだ上からベルトでエンジンを始動していた時代ですね。 土橋氏:あの機体は画期的だったよね。飛びもすごく静かで。確かマフラーも特注品だったよね。 泉水氏:マフラーもミニチャンバーのような特注品で、非常に静かな音でした。この機体で初めて日本選手権で優勝できたので、やはり一番記憶に残っていますね。でも考えてみたらどばっちゃん凄いね。あの頃から自分で機体を組んでいたんだもんね。 土橋氏:結構適当だったけどね(笑) 泉水氏:自分はその頃はまだ父が組んだ機体を飛ばしていただけでした。自分で機体も組むようになったのが、先ほど話に出た、どばっちゃんが優勝した世界選手権の後ですね。勝つためには自分で機体を組めるようにならないとダメだと感じて、そこからはすべて自分でやるようになりました。 編集部:しかし、お話をうかがっていると、同じ世代のライバルがたまたま同じ県にいて、同じ競技で世界を相手に切磋琢磨しあうというのは凄いことですよね。 泉水氏:凄いめぐり合わせだと思います。二人が中学生の頃から飛ばしていた飛行場には中島さんもいましたし、飛行機では成家さん(※編集部注:成家儀一氏。F3A世界選手権を連覇した名フライヤー)もいましたので、日本のトップクラスの人たちのと距離が近かったのはラッキーでしたね。普段からチャンピオンのフライトを見ることができますし、身近に接することができたのは大きかったと思います。さらに、すぐ近くに同じ世代の最大のライバルがいましたから、やはりお互いが競い合ってきたからこそ、ここまでやってこれたところはあったと思いますね。 編集部:お二人はいま振り返ってみるとRCヘリを始めて良かったですか? 土橋氏:自分は始めて良かったですね。 泉水氏:自分もそうですね。 編集部:いろいろ大変なこともこれまであったかと思いますが…。 土橋氏:自分はあまり大変だと思ったことはないですね(笑)。 泉水氏:RCヘリという決して大きな世界ではないかもしれないですが、そのひとつのことで世界チャンピオンになれたというのは自信になっていますし、その過程を経験できたというのは非常に大きかったですね。 後編に続く。「RCFan」編集部が運営するラジコン情報サイト