11-212x300

月刊RCFanに掲載された記事の中から、特に人気の高かったものをアーカイブとして再掲載する本企画。その第一弾は、RCFan通巻200号特別企画としておこなった、F3C世界チャンピオン経験者同士の特別対談「泉水和幸×土橋幸広〜今こそRCヘリを語ろう〜」をお送りします。

2017年1月号に掲載されたお二人の対談は、RCヘリフライヤーを中心に特に高い人気を集め、非常に好評を得ました。日本が世界に誇るワールドチャンピオン2人の対談は、RCFanでしかできない貴重なもの。今回、この対談を全3回に分けてお送りします。

■編集協力■
双葉電子工業
ワイズファクトリー

※本企画は月刊RCFan2017年1月号に掲載されたものを編集し再掲載したものです。

14-01


1991年のF3C世界チャンピオンである泉水和幸氏(左)と1989年のF3C世界チャンピオンである土橋幸広氏(右)。

2人の初めての出会いから世界チャンピオンになるまで

編集部:まず、お二人が初めて出会った日のことをお聞きしたいのですが、覚えていますか?
土橋氏:最初はいつだったかな? 確かF3C日本選手権の関東予選の会場だったよね。
泉水氏:そうそう、私が中学2年生でどばっちゃん(土橋氏)が中学3年生だったはず。ただ、お互いに顔と名前は何となくわかったけど、その時は特に話してないよね。
土橋氏:そう、同い年くらいのヤツがいるな~と思ったくらい。その時は確かカズ(泉水氏)が予選トップで通過したんだよね。オレはギリギリで通過だった(笑)。自分の番が終わったら、近くの鬼怒川に遊びに行っちゃったくらい。それで会場に帰ってきたら予選通過してた(笑)
泉水氏:その後、日本選手権が終わって、ウチが模型屋をやっていること知ったどばっちゃんのお父さんがお店に来てくれて、自分が入っていたクラブにどばっちゃんが来るようになって。そこから同じ飛行場でRCヘリを飛ばすようになりました。

編集部:初めて日本選手権で優勝されたのは泉水さんが先でしたよね?
泉水氏:そうですね。3回目の出場で初めて優勝することができました。どばっちゃんと知り合って3年くらい経った時かな。もうあんまり覚えてないな(笑)
土橋氏:自分はフタバに入社した年だから、1988年が初優勝だったはず。

編集部:その頃はやはりお互いにライバル意識はあったのでしょうか?
土橋氏:それはありましたね。最初にカズの飛行場に行くようになった時はJRのプロポを使ってたんです。反対にカズはフタバでした。その後、自分がフタバに入社したのでフタバを使うようになった頃、今度はカズがJRを使うようになった。
泉水氏:実は知り合った頃にフタバを使ってたけど、その前はJRも使ってたんだよね。それで日本選手権に初めて出場する時にフタバに変えて、その後JRを使うようになって、今はまたフタバ。
土橋氏:そうだっけ? 覚えてないな~。

編集部:初めて泉水さんのフライトを見た時、土橋さんはどのように感じたのでしょうか?
土橋氏:もう単純に「すごいうまい!」としか思わなかったですね。自分はまだその頃は始めて間もなかったので、まだ上空飛行も大してできませんでした。そんな頃に、カズはループとかバンバンやっていたので「全然レベルが違うな~」と思ってましたね。
泉水氏:その頃のF3Cは静演技主体で、静演技と上空演技の中からいくつか演技を自分で選択する方式でした。フライヤーが好きな演技を選んでよく、静演技だけでもOKでした。自分たちが初めて予選出た時はひとつだけ上空演技をおこなわなくてはいけなくて、確かどばっちゃんは540度ストールターンで1回転半ピルエットをする演技を選んでいて、自分はループをやっていました。
土橋氏:オレなんか予選の時に540度ストールターンがやっとできるくらいだったからね(笑)。それで予選通過してしまったものだから、本戦が大変で。しかもすごい強風だったので、自分の父が危ないから「オマエ棄権しろ」と言われて、1ラウンドか2ラウンド棄権しましたからね。諏訪部さんや石川さんといった先輩たちがバンバン墜落させるくらいの強風でした。自分の中でも「この風はヤバいな」と感じていたので、大人しく父の言うことを聞きました。

編集部:いまお話に出ましたが、お二人がRCヘリを始めて予選に出る頃、憧れのフライヤーや目標にしていたフライヤーはどなたでしたか?
土橋氏:中島厚さん、諏訪部誠治さん、石川静男さん、池田哲郎さん、高柳和幸さん…みんな上手だったよね。
泉水氏:あの頃、田屋さん(※編集部注:田屋恵唯氏。初代F3C世界チャンピオン)は選手権に出たり出なかったしていた頃だよね。僕ら2人とちょうどすれ違いで、直接戦った記憶はあんまりないよね。

編集部:先に泉水さんが日本チャンピオンになって、土橋さんはどういった気持ちでしたか?
土橋氏:その頃は明らかにカズの方がうまかったし、あまり悔しいという気持ちはなかったかな…。
泉水氏:同じクラブで練習していたし、仲間意識が強かったからね。

14-05

編集部:その後、1989年にアメリカで開催されたF3C世界選手権がお二人の世界戦デビューですよね。
土橋氏:自分が19歳、カズが18歳だから二人ともまだ10代か、若いな(笑)。それまで海外に行ったことなくて、アメリカに行けるということですごいウキウキしてましたね。
泉水氏:自分も始めての海外でした。既に実家の模型屋を継いでいたので、何としてもタイトルが欲しく、ウキウキはしてなかったですね(笑)。そういった意味ではライバル意識は実は自分の方が強かったかもしれない。しかも、どばっちゃんがフタバに就職してフタバのプロポを使うようになり、自分はJRのプロポを使っていて、ヘリの機体もどばっちゃんはヒロボーで自分はカルト産業。そういった図式の中での世界選手権でしたね。ちょうどF3Cがスケールボディから競技会用のボディに変わって行った頃です。確か自分は「イプシロン」で出場しましたね。

編集部:初めての世界選手権ですが、どのくらいの成績を残せると思いましたか?
泉水氏:世界選手権はまったくわからなかったですね。ただ、その前の第2回大会で年齢の近いカーチス(※編集部注:カーチス・ヤングブラッド氏。アメリカのF3Cと3Dの名フライヤーで、F3C世界選手権を3度制覇している)が優勝していて、それ自体意識はしなかったですが、どこまで通用するか楽しみではありましたね。
土橋氏:カーチスの機体が凄い高回転だったのは覚えてますね。当時の日本ではあんなに高回転で回す人はいなかったですからね。
泉水氏:確かにあれは凄かった。当時の日本は静演技主体で上空演技とは回転数を切り替えていましたが、カーチスは最初から最後まで高回転でしたね。印象に残っているのはカーチスがレディースボックスで意味もなく高速のピルエットを披露した時ですね。そうしたらテールギヤボックスが壊れて機体は墜落してしまったのですが、彼がその機体を蹴飛ばして悔しがっていたのは覚えていますね。
土橋氏:確かロールを失敗して途中で演技を辞めた時もあったよね。帰ってきてテントに機体をバーンとぶん投げて。あの時、「カーチスって結構気が短いんだな…」って思ったよね(笑)
泉水氏:日本から同じ世代の僕らが来ている中で、彼的にも納得のいく飛行ができなかったんでしょうね。それにしてもあれは衝撃的でしたね。地元開催だったこともあって期するものがあったのでしょう。

編集部:ちなみに英語はどうしたんですか?
土橋氏:まったく話せないので通訳の人が頼りでした(笑)
泉水氏:今も当時もまったく話せない…(笑)

編集部:その大会で土橋さんが世界チャンピオンに輝きます。泉水さんは当時はどのような気持ちでしたか?
泉水氏:やっぱり世界チャンピオン獲りたかったですよね。結果的にポイント差も非常に僅差でしたし。最終ラウンドで追いつけると思ったのですが届かなかったですね。ただ、ほぼ同い年の3人(泉水氏、土橋氏、ヤングブラッド氏。ヤングブラッド氏は1987年大会で初優勝を飾っている)のうち2人が世界チャンピオンになったので、「次は自分が」という気持ちが強くなりましたね。そんなこともあったので、1991年のオーストラリア大会で世界チャンピオンになれた時は嬉しかったです。

中編に続く。


【RCFan2017年1月号より】通巻200号記念〜泉水和幸×土橋幸広 特別対談【前編】https://www.rcfan-plus.com/wp-content/uploads/2019/02/13-01-1024x683.jpghttps://www.rcfan-plus.com/wp-content/uploads/2019/02/13-01-150x150.jpgrcfan-plus月刊RCFanアーカイブ>>月刊RCFanに掲載された記事の中から、特に人気の高かったものをアーカイブとして再掲載する本企画。その第一弾は、RCFan通巻200号特別企画としておこなった、F3C世界チャンピオン経験者同士の特別対談「泉水和幸×土橋幸広〜今こそRCヘリを語ろう〜」をお送りします。 2017年1月号に掲載されたお二人の対談は、RCヘリフライヤーを中心に特に高い人気を集め、非常に好評を得ました。日本が世界に誇るワールドチャンピオン2人の対談は、RCFanでしかできない貴重なもの。今回、この対談を全3回に分けてお送りします。 ■編集協力■ 双葉電子工業 ワイズファクトリー ※本企画は月刊RCFan2017年1月号に掲載されたものを編集し再掲載したものです。 1991年のF3C世界チャンピオンである泉水和幸氏(左)と1989年のF3C世界チャンピオンである土橋幸広氏(右)。 2人の初めての出会いから世界チャンピオンになるまで 編集部:まず、お二人が初めて出会った日のことをお聞きしたいのですが、覚えていますか? 土橋氏:最初はいつだったかな? 確かF3C日本選手権の関東予選の会場だったよね。 泉水氏:そうそう、私が中学2年生でどばっちゃん(土橋氏)が中学3年生だったはず。ただ、お互いに顔と名前は何となくわかったけど、その時は特に話してないよね。 土橋氏:そう、同い年くらいのヤツがいるな~と思ったくらい。その時は確かカズ(泉水氏)が予選トップで通過したんだよね。オレはギリギリで通過だった(笑)。自分の番が終わったら、近くの鬼怒川に遊びに行っちゃったくらい。それで会場に帰ってきたら予選通過してた(笑) 泉水氏:その後、日本選手権が終わって、ウチが模型屋をやっていること知ったどばっちゃんのお父さんがお店に来てくれて、自分が入っていたクラブにどばっちゃんが来るようになって。そこから同じ飛行場でRCヘリを飛ばすようになりました。 編集部:初めて日本選手権で優勝されたのは泉水さんが先でしたよね? 泉水氏:そうですね。3回目の出場で初めて優勝することができました。どばっちゃんと知り合って3年くらい経った時かな。もうあんまり覚えてないな(笑) 土橋氏:自分はフタバに入社した年だから、1988年が初優勝だったはず。 編集部:その頃はやはりお互いにライバル意識はあったのでしょうか? 土橋氏:それはありましたね。最初にカズの飛行場に行くようになった時はJRのプロポを使ってたんです。反対にカズはフタバでした。その後、自分がフタバに入社したのでフタバを使うようになった頃、今度はカズがJRを使うようになった。 泉水氏:実は知り合った頃にフタバを使ってたけど、その前はJRも使ってたんだよね。それで日本選手権に初めて出場する時にフタバに変えて、その後JRを使うようになって、今はまたフタバ。 土橋氏:そうだっけ? 覚えてないな~。 編集部:初めて泉水さんのフライトを見た時、土橋さんはどのように感じたのでしょうか? 土橋氏:もう単純に「すごいうまい!」としか思わなかったですね。自分はまだその頃は始めて間もなかったので、まだ上空飛行も大してできませんでした。そんな頃に、カズはループとかバンバンやっていたので「全然レベルが違うな~」と思ってましたね。 泉水氏:その頃のF3Cは静演技主体で、静演技と上空演技の中からいくつか演技を自分で選択する方式でした。フライヤーが好きな演技を選んでよく、静演技だけでもOKでした。自分たちが初めて予選出た時はひとつだけ上空演技をおこなわなくてはいけなくて、確かどばっちゃんは540度ストールターンで1回転半ピルエットをする演技を選んでいて、自分はループをやっていました。 土橋氏:オレなんか予選の時に540度ストールターンがやっとできるくらいだったからね(笑)。それで予選通過してしまったものだから、本戦が大変で。しかもすごい強風だったので、自分の父が危ないから「オマエ棄権しろ」と言われて、1ラウンドか2ラウンド棄権しましたからね。諏訪部さんや石川さんといった先輩たちがバンバン墜落させるくらいの強風でした。自分の中でも「この風はヤバいな」と感じていたので、大人しく父の言うことを聞きました。 編集部:いまお話に出ましたが、お二人がRCヘリを始めて予選に出る頃、憧れのフライヤーや目標にしていたフライヤーはどなたでしたか? 土橋氏:中島厚さん、諏訪部誠治さん、石川静男さん、池田哲郎さん、高柳和幸さん…みんな上手だったよね。 泉水氏:あの頃、田屋さん(※編集部注:田屋恵唯氏。初代F3C世界チャンピオン)は選手権に出たり出なかったしていた頃だよね。僕ら2人とちょうどすれ違いで、直接戦った記憶はあんまりないよね。 編集部:先に泉水さんが日本チャンピオンになって、土橋さんはどういった気持ちでしたか? 土橋氏:その頃は明らかにカズの方がうまかったし、あまり悔しいという気持ちはなかったかな…。 泉水氏:同じクラブで練習していたし、仲間意識が強かったからね。 編集部:その後、1989年にアメリカで開催されたF3C世界選手権がお二人の世界戦デビューですよね。 土橋氏:自分が19歳、カズが18歳だから二人ともまだ10代か、若いな(笑)。それまで海外に行ったことなくて、アメリカに行けるということですごいウキウキしてましたね。 泉水氏:自分も始めての海外でした。既に実家の模型屋を継いでいたので、何としてもタイトルが欲しく、ウキウキはしてなかったですね(笑)。そういった意味ではライバル意識は実は自分の方が強かったかもしれない。しかも、どばっちゃんがフタバに就職してフタバのプロポを使うようになり、自分はJRのプロポを使っていて、ヘリの機体もどばっちゃんはヒロボーで自分はカルト産業。そういった図式の中での世界選手権でしたね。ちょうどF3Cがスケールボディから競技会用のボディに変わって行った頃です。確か自分は「イプシロン」で出場しましたね。 編集部:初めての世界選手権ですが、どのくらいの成績を残せると思いましたか? 泉水氏:世界選手権はまったくわからなかったですね。ただ、その前の第2回大会で年齢の近いカーチス(※編集部注:カーチス・ヤングブラッド氏。アメリカのF3Cと3Dの名フライヤーで、F3C世界選手権を3度制覇している)が優勝していて、それ自体意識はしなかったですが、どこまで通用するか楽しみではありましたね。 土橋氏:カーチスの機体が凄い高回転だったのは覚えてますね。当時の日本ではあんなに高回転で回す人はいなかったですからね。 泉水氏:確かにあれは凄かった。当時の日本は静演技主体で上空演技とは回転数を切り替えていましたが、カーチスは最初から最後まで高回転でしたね。印象に残っているのはカーチスがレディースボックスで意味もなく高速のピルエットを披露した時ですね。そうしたらテールギヤボックスが壊れて機体は墜落してしまったのですが、彼がその機体を蹴飛ばして悔しがっていたのは覚えていますね。 土橋氏:確かロールを失敗して途中で演技を辞めた時もあったよね。帰ってきてテントに機体をバーンとぶん投げて。あの時、「カーチスって結構気が短いんだな…」って思ったよね(笑) 泉水氏:日本から同じ世代の僕らが来ている中で、彼的にも納得のいく飛行ができなかったんでしょうね。それにしてもあれは衝撃的でしたね。地元開催だったこともあって期するものがあったのでしょう。 編集部:ちなみに英語はどうしたんですか? 土橋氏:まったく話せないので通訳の人が頼りでした(笑) 泉水氏:今も当時もまったく話せない…(笑) 編集部:その大会で土橋さんが世界チャンピオンに輝きます。泉水さんは当時はどのような気持ちでしたか? 泉水氏:やっぱり世界チャンピオン獲りたかったですよね。結果的にポイント差も非常に僅差でしたし。最終ラウンドで追いつけると思ったのですが届かなかったですね。ただ、ほぼ同い年の3人(泉水氏、土橋氏、ヤングブラッド氏。ヤングブラッド氏は1987年大会で初優勝を飾っている)のうち2人が世界チャンピオンになったので、「次は自分が」という気持ちが強くなりましたね。そんなこともあったので、1991年のオーストラリア大会で世界チャンピオンになれた時は嬉しかったです。 中編に続く。「RCFan」編集部が運営するラジコン情報サイト